2024年12月23日

言が今でも蘇ることが

とんがったりしてるのは、ある意味、切れ味が楽しめて気持ちいい。
へんに丸くなったり、人が出来てくる(人格が整ってくる)と、信頼されたり、安心はするものの、規格外、予想外のことをしなくなるので、面白くない、ツマラナイ。
荒削りなエッジが、切れ味よく刺激になる、そういう感覚、感触が鈍化する。
その代わりに、ピースフルでマイルドになる。
両方は、逆ベクトルなので両立、同時存在は難しい。
わたしは、どちらかというと、なんでも両極端あり、真ん中のところに自分で意図的に来て、どうにか均衡を保っている。
平均値は中央値。
2つの両極端を足して2で割っているだけ。

「練習」では両極端を、常に一定にすることを目指す。
が、なかなか、混ざらない。
すごく良いか、すごく悪いか、にしかならない。
あとは、まあまあこんかもんかな、という妥協レベル。
自分と向き合って、かれこれ65年は経つ。
(年齢➖2歳)
3つ子の魂、百まで、で、3歳の時の記憶もある。
幼児の頃、大惨事に見舞われトラウマが生じた人もいるだろう。
たまたまそういう不幸な出来事には遭遇しなかったものの、幼い時の自分の行動や発言が今でも蘇ることがあり、冷や汗が出る。
子供のすることだから、周りはそういう目で見てくれたことだろうけれど、今、思えばやはりとても恥ずかしい。

今の子供はお利口だし、口のきき方もスマートだ。
わたしが子供の頃は、教えられていないこともあり、自分に自覚がなく知らないにせよ、ひどい。
両親は仕事に忙しく、子育てどころではなかった。
たまに接する夕食の時間は、父の躾が厳しかった。
特に品のない言動は嗜められた。
母が万年未成年・大らか健康優良児だったため、父が躾には口を出していた。
とてもうるさい人物ではあったが、わたしは、父を尊敬していた。
父の血を受け継いだら良かったのだが、哀しいかな母のほうに似ているような気がする。
これは、DNAではなく、環境かも知れない。
おなじ両親から生まれ育った、兄や姉とは、わたしは少し違う。
が、どちらかというと、わたしは兄寄りだろう。
世間から遠いタイプ。

わたしは、兄が18歳の時までしか一緒に暮らさなかった。
わたしはまだ中学生。
知っているのは、兄の高校卒業まで。
姉とは女同士、歳も2歳しか離れていないので距離が近く、お互い、結婚して家を出てからも、やり取りはずっとある。
姉のことは、スーパー(ウー)マンだとわたしは思っている。
父はよく姉のことを「女性にしておくにはもったいない。男だったらどんなに良かったか」と嘆いていた。
姉は、なかなか能力のある人物である。
同じ両親から生まれ育ったのに、なぜ、こんなに違うのか。
神様のイタズラに他ならない。

幼い頃のエピソードも、同じ事柄があっても、姉とわたしとでは全く受け取り方や感想が異なる。
姉が言っている当時の出来事に対して、わたしは、ほぼほぼ、何も感じず何も考えていない。
脳みそは完全に休眠状態である。
「なぜ、そんなことを知っているの?
わたしは、全く聞いてないよ」
と言ったところで、脳が動いていないのだから仕方ない。
代わりにわたしは何を見て、何をしていたのだろう?
お花畑で蜂に刺されながら飛び回っていたのかも知れない。  


Posted by 零七 at 15:18Comments(0)

2024年11月12日

ないかと推測している

今日の記事はスルーしてください。 
超ツマラン独り言なので。

わたしが一番好きなのは、わたし。
誰に興味を持ってもらわなくてもいい禮品
自分が自分を一番知っているので。

と、ここで、全員、皆んな引いて退散したかどうか、チェック。
あ、誰もいませんね。
では、続きを。

わたしは、見た目と中身が違う。
独身の頃は、悪女に憧れた。
なぜなんだろう?
悪女が魅力的なような気がしたのだろう。
憧れるのは結構だが、実際は全く悪女でもなんでもなく、退屈な善良な女性だった。
なので、男性は、悪女とスリリングに遊ぼうと思っていたら、面白くもなんともない、のほほんとした人物だったので、至近距離まで接近したものの、急遽、目の前でUターン存貨管理系統
お互い、残念でした。
これでは、小説のネタにもならない。

わたしは、見る人が勝手に描く人物に見えるようだ。
着色されていない透明人間。
これまで言われたのは、
学校の教師、ダンス教師、医師、保険の外交員、FM放送局員、スナックのおねえさん、スナックのママ、上品な婦人、奥さん、中国人、アジア現地人、ヒスパニック、フィリピン人、上組員の妻、、、
この中で、「奥さん」というのは、誰にでも当てはまる。
が、「奥さん」と言われたのは、若い学生の時。
実際に既婚者になったら、独身に見られた。
なに、それ?
どんな地で、どんな場面で、どう見られるか、がキーのよう。

若いある時、地元のスポーツショップの店主に、当時のわたしのキンキンギラギラ・ファッションを見て「あんた、いったい、どこの子や?」とマイナス感情で訝(いぶか)しがられた。
「〇〇です」と答えると、なるほど、それならわかる(仕方ないけど)という反応だった。
(ちなみに親は、「組」とか、やってません)

話さなかったら、気になる女性。あるいは、透明人間。
口を開くと、変な奴。
ユニークというものか。
なので、最近は、ほとんど口を開かないようにしている。
ボロが出る。
だが、話すと面白いと言ってくれる人もいる。ギャップ。
これも、おそらく相手が勝手に自分で想像し、求めているものが投影されただけではないかと推測している。
相手の好みによって、はじかれたり、嫌悪されたり、興味を持たれたり、持たれなかったり。
すべて相手が能動的で、わたしは受動的。
大概は、居たことにも気づかれない、存在感まるでなし。気配を消している。
相手自体のこころを映す鏡のようになっている。

三谷幸喜監督の新作映画「スホミの話をしよう」。
まさに主人公スホミに共通するものがある。
相手によって望まれる姿になる、カメレオンのようなキャラクター威士忌 香港
そうやって人に依存しなければ、生きて来れなかった。
先月、その映画を観たが、後で詳しい解説を読んで、唸った。
そうか、そんな深い意味が込められていたのか、と。
解説者が深読みしすぎかも知れないが。  


Posted by 零七 at 10:26Comments(0)

2024年09月23日

自宅で静養しているほう

昨日、出先の趣味現場、女子更衣室での話。
わたしは透明人間になって、二人の女性の会話を一方的に聞くだけなのだが。
片方の女性が言う。 

「家のお隣の奥さん(シニア)、鬱っぽいらしいわ。 
で、受診したところ、『とにかく家の中から出なさい』と言われたそうよ凹凸洞治療
1時間でも2時間でもいいから、家の外で過ごしなさい、だって」

そう話しながら二人は、
「わたしたちは良かったね、出かける先があって」
と安堵していた。
それを聞いて、わたしも、「そうだ、そうだ、もっともだ、出かける先があるのは素晴らしい!!」と、こころの中で賛同した。

とはいうものの、出かける先は自分で作らなければならない。
ふらふら夢遊病者のように出かけても、そして、公園のベンチにぽつんと長時間、座っていても、虚しいと思う。
公園で元気に遊ぶ子供の姿を見たり、緑や池の自然に触れ癒されるのならまだしも、魂が抜けたように座っているのなら、自宅で静養しているほうがマシ。
わたしなら、そんな幽霊のような姿を外に晒したくない。
外に出る時は、家の中でしっかりエネルギーを養い、目的を持って出たい腸胃科醫生推薦

だがしかし、ミニ鬱は、いつまで経ってもエネルギーが貯まらず、そのまま家の中に閉じこもり続けてしまう。
だから、重篤化しないためにも、なんでもいいから、とりあえず、一歩、家の外に出ることを勧められる。

「家の外」は、物理的な「家」でなくてもいい。
「自分」の外に出る。
インターネットやブログなどで、やり取りをして気づきを得たり、読書で著者から知恵を借りたりする。
そう書くと、いかにも優等生的な答えになってしまう。

「パンがなければ、ケーキを食べればいいのよ」
と、マリーアントワネットになってしまう。
(史実では、彼女は言ってない説があるが)

自分が切り抜けられたから、人も行けるだろう、と考えるのは安易かも知れない。
自分はラッキーなのかも。
わたしは自主性はないものの、滅多やたらと壊れない、メンタルが強い。
繊細さに欠けるのだろう。
ガラスのハートは生きていくには、しんどい。

趣味分野では、上を見るとキリがなく、下を見てもキリがなく、横を見ると、ニコニコ、、、である。
皆んな似たようなヒマジンが集まっている。
どんなに崇高な立派なことを言おうが、向上心を持って努力しようが、たかが知れている。
所詮、アマチュアの暇つぶしである。
だが、この暇つぶしこそ、大事、肝である。

老後、義務から解き放たれた時期は、何もすることがないのだbotox瘦面
自分で奮い立って何かをしなければ、暇で暇で仕方がない。
義務からの解放。
それは、長年、わたしが憧れ追い求めていたものなのだが、実際、そうなってみると、有り余る膨大な時間との闘いとなる。
脳が若い頃のように強くないから、何もせずに、ほにゃほにゃしているうちに、陽は落ち
やがて陽が上る。
何かしても、何もしなくても、一日一日は過ぎて行く。
もったいないと感じたら、しめたもの。
何かをする気力が湧いてくる。
  


Posted by 零七 at 15:33Comments(0)

2024年08月21日

が高い人も低い人

認知症は、なにも致命的な病気ではない。
誰もが関わりのあることだろう。
認知症専門医が、認知症になることもある英國租屋
大国の元大統領や首相であっても同じこと。
多くの家族には経験がある。
問題は、他人のことだと捉えていて、対岸の火事であり、決して自分とは関係がないと思っていること。
65歳以上の5人に1人は認知症と言われる現実を、全く、どこか他所の国のことと見ていること。

夫婦で2人共に認知症だったとしても、家庭内での暮らしは社会に出ていないので外からは把握しにくい。
現に、ご近所のご夫婦が認知症だったが、夫さんは妻さんを認知症ではないと言っておられた增強免疫力補充品
元教師の夫さんのほうが妻さんより後から遅れて認知症になった。
ご夫婦ともに明るい快活な方々だった。

認知症にも、軽度と重度があると思う。
かく言うわたしも、認知機能の衰えを認知症の入り口と思っているフシがある。
認知機能も多岐にわたり、老化していない正常な人でも、注意力、集中力、理解力、決断力、段取り、など、認知機能レベルが高い人も低い人もいる。
それをなんでもかんでも「老化による認知機能の低下」を「認知症」と位置付けると、尊厳やプライドを傷つけられるだろう。
わたしは、若い時から相当な天然だったため、老化で追い討ちがかかって天然に磨きがかかっているものの、自分のミスには慣れている。
老化なのか、生まれつきなのか、境界がわかりにくい。ボーダーレスとなっている。
(反省を促すには良くないことだが)

だがしかし、自覚はある。
困るのは、自覚がない人である。
自分はちゃんとしている!!と、ミスを認めず否定するだけならまだしも、怒り出したりする。
それが老化のせいなのか、そういう性格なのかが、わかりにくい。
挨拶する程度のお付き合いや、ウォーキングやハイキングでご一緒するだけなら、問題ない。
(迷子になられては主催者には支障があるが)
少し高めの能力を必要とする場合は、困るuche DSE
しかも、仲間だったりペアだったりすると、チームワークを乱す。
特に一般的な日帰り登山のような、日が落ちる前までに帰還しなければならないと、一人の人のペースが遅くなると全員の足を引っ張り、引いては全員の生命の危機に及ぶ場合がある。
レベルを合わさなければならない。
ある人が病気で足を悪くされたのだが、「速度が遅くなり皆さんに迷惑をかけるかも知れませんがよろしく」と登山参加希望をされた。
が、冷徹と取られるかも知れないが参加を断られた。
1人の欲求のために、全員が命のリスクに晒されるのは回避したいところだ。

断られたことによってプライドは傷ついたことだろう。
が、仕方ない。しがみついて、周りに迷惑をかけることがある。

ある団体旅行。
旅の大ベテランのご夫婦が、集合場所に現れない。
添乗員さんが走り回ってことなきを得た。
そのご夫婦の妻さんが、場所によっては歩行に困難があり、別の参加者の人たちに抱えられてその場を回った。
添乗員さんは気を使って、他の参加者の皆さんにお礼の品を配っていた。
夫さんは全然知らん顔。
足の悪い人をみんなでサポートするのは美談ではあるが、決してお安くない旅行代金だった。
そこそこの費用を払っているので、自分が手厚くサポートしてもらえると思って参加した人もいるだろう。
自分のことばかり自己主義だと非難されると思うが。
一生懸命貯めたお金で時間をやりくりして参加できた有料ツアーに、自由参加の全くの他人のお世話まで引き受ける、素晴らしい人格が備わっている人は立派だ。  


Posted by 零七 at 10:29Comments(0)

2024年07月13日

旅をするなんて敬服す

愚蝶ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
(今日は「蝶」に「愚」をつけました)
毎日更新されている他のブロガーさんのブログを読むと、具体的に閲覧数を紹介しておられ、その多さに驚く新屋清潔
ご本人は「少ない閲覧数であるが、それでも(挫折せず)毎日、更新している」と書かれている。
いえいえ、全然、少なくないです。
愚蝶ブログなど、よくまあ毎日更新するモチベーションはいったい何だろう?と、研究の対象になるぐらいの閲覧数である。
(数に関わらず、訪問いただき有り難く思っています。これは、はずせない)
自己分析によると、自己愛。
ひたすら自分を愛していることが自分でわかる。
(引きこもりの特徴?)
愚かであろうが、自己陶酔していようが、その根底には自己愛がある。
でなければ、こんなに毎日毎日、べらべらダラダラ書かないと思われる服務式住宅

ブログ村エッセイにランキングされている旅ブログがある。
いやはや脱帽。
若さと熱情以外の何ものでもない。
わたしも訪れたことがある地であっても、あんなに深掘りし、身を挺して旅をするなんて敬服する。
わたしには絶対に出来ない。
が、擬似体験する思いで、(精神的に)汗や脂汗を流しながら、拝読している。
(一部、このGW旅に参考にさせていただいた)
それにしても、若さは、スゴイ。
バイタリティたるや。

ではあるものの、わたしは枯渇しているわけではない。
井戸は枯れていたかも知れないと思っていたが、そうでもない鳥攝
水道水ばかり使っていたからか。

バイタリティ溢れる旅。
応援しながら楽しみにしている。  


Posted by 零七 at 08:10Comments(0)

2024年06月04日

着陸しているように

小金持ちは、妬まれる。
妬まれないように仲間うちでワイワイしていればよいものを、チラと仲間以外の人にも見せたくなると思われる。
自慢気。
だが、性格が悪いと思われるのは避けたいため、平等精神を心掛けている、、、のが、見え見えの人がいる公司禮品
単に、わたしが捻じ曲がり、ヒネクレ者なだけであるが。
やはり、テリトリー内で活動するほうが摩擦が少ない。無難。
価値観を共有できることが多いから。
定年後、どこどこに勤めていた元〇〇、という肩書から離れられない人もいるようだが、わたしのイメージでは一昔前の定年族のように思える。
今の定年族は、リタイアする前からリタイア後の準備をしているため、職を離れても自由を謳歌する無職またはアルバイト、または第二の就職に、軟着陸しているように感じる。
(働かなくては年金では生活できない高齢ワーカーはまた別の話として)

例えば、、、偏見イメージではあるが、、、
小金持は、ホノルルマラソンに参加する抖音代理商
近所を走るだけでは物足りない。
これは素晴らしい。
登山をする。汗をかく。
ブランド品をジャラジャラ身に付けない。
お金や肩書でないところで、汗を流す。
小金持を意識させない。
だが、高品質、高価格の、快適性、品質重視の普段着を着る。
ユニ◯ロの人もいるが、ハイレベルな品質に自分自身のためにこだわり、ユニ◯ロでない人もいる。

わたしが勝手に抱く小金持イメージを、決して否定しているわけではない。
良いイメージもある。
個人的な好みであって、カレーが好きな人も苦手な人もいる。
ただ、ああ、あの人のことかな、と顔が思い浮かぶ人は、一人や二人、いると思う。

別にどうってことのない、〆のない話になってしまった。

蛇足であるが、
人は、ゴシップや噂話、その場にいない人の悪口が好きである。
そんなことに全く関心がない仙人もいる。
仙人たちが集まって井戸端会議する図を想像すると面白いuche呃人
話題はなんだろう?
収拾がつかなくなりそうだ。
やはり仙人は千人集まって、世界平和を願う世界会議あたりを想像するが、決して不幸を生み出す新興宗教会議であってほしくない。  


Posted by 零七 at 16:00Comments(0)

2024年04月21日

りこなすのはカッコい

動力エネルギーに、「馬力」というものがある。
鉄腕アトムは、十万馬力!
この力強い馬力で、湯布院の街中をぐるりと回った抖音商城
近くで見ると、馬は立派だ。
GWに石垣島の近くの竹富島で牛車に乗ったが、牛とはまた違う。
将軍さまか騎士になって、パッカパッカと馬を乗りこなすのはカッコいい。
わたしの父は午(うま)年ということもあり、馬が大好き。
学生時代は乗馬部。
義姉も乗馬をしていた。
わたしは、とても乗れないので、馬に引かれてポコポコと西部劇の幌馬車の乗客気分全片幅
行く場所、行く場所、観光客の皆さんが、にこにこ笑顔で手を振ってくれる。(馬に)
注目を集め、凱旋パレード中の大谷投手になった気分だが、皆さんは馬に釘付け。

ちなみに、何頭もの馬が駆け巡る躍動感溢れる大きな絵画を実家からもらってきた。
夫の実家をリフォームした際、リビングルームに掛けているが、しみじみ、、、父の活力をもらっている。

それにしても、湯布院は素敵なところ。
外国人だらけなのが少し気になるが。
世界ではあちこち心配事象がたくさん起こっている天幕 帳篷、、、
ではあるものの、インバウンド再開でまた、日本も世界も活気が出るといいなあと願う。  


Posted by 零七 at 10:30Comments(0)

2024年03月15日

状態で参加すること

そうなると、一つではなく二つまとめて処理しようとする。
めんどくさがりなのだ。
行きに用事をするとすると、帰りは絶対に別の用事を入れる。手ぶらでは帰らない。
動く時はあれもこれも、一度にまとめて。
なにしろ、ものぐさなので。

ところで。
仏事で姉一家と集まった。
欠席7人、出席16人。
姉一家は来週?また、仏事で一家の集まりがあり、総勢25人。
仏事は鬱陶しいとは思っていたが、仏事そのものは、めんどくさいものの(→不謹慎)、兄弟一家、姉妹一家が集まるのは、なかなか興味深い。
ついに、自分たちが1番年長の世代になったせいもある。
世代代わりが行われ、孫、ひ孫と、世代は若返る。
お年寄りにとっては、一族の集まりは賑やかで活気、元気をもらう。
もっと歳を取れば、娘たちの代にバトンタッチされ、我々はお客さん状態で参加することになる香港永居申請
かなり高齢の人々はもう参加するのは心身ともにキツいようで、参加しない。
我々も次の代にバトンタッチするまでの間が、活力がある期間。
とは言え、つい最近、上の代からバトンタッチしたばかりだが。
エリザベス女王のあとを引き継いだ高齢のチャールズ国王のようなものか。(明らかに例えが適切ではないにしても→不謹慎)

こんなことを書いていると、ますます閲覧数は下がる一方だ。

ちなみに、スマホを触らずに、今日は今のこの時間(夜)まで持ったのだから、これは益々、今日はいったい何をしていたのだろう、と検証したくなる。

話は変わるが、人工榊を注文し、手に入った。(※榊=植物。神事、仏事などに使われることが多い)
(夫の家では今も常時、生のホンモノ榊)
わたしのは生の榊ではないのだが、うちの神棚にお供えするもの。
これは、わたしの人生の中で大転換である。
無宗教で無神論者のわたしが、、、。
しかも、人工であるところが、超矛盾している。
どういう心境の変化だろう。
いよいよあの世が近くなったという自覚に背中を押されたのか香港投資移民條件
このまま平穏無事を祈る気持ちからか。
ささやかな気持ちではあるが、平穏無事を維持するのは1番難しいかも知れない。  


Posted by 零七 at 10:05Comments(0)

2024年01月12日

連れて行ってもらい」と指示

昨夜はこじんまりファミリー・クリスマス。
ケーキは手作り。
長女が段取りをした。
と言ってもスポンジケーキを手始めに、各ケーキパーツ、トッピングやチョコペン、お菓子ペンは購入、既製品。
これまた購入済みのクッキーに、子供達がお絵描きしたり文字を入れたり、デコレーションしたり。
あとは、ホイップ済み生クリームと、くまモンのイラストラッピングの熊本産イチゴだけ。
ほぼ手をかけず、火を使わずに、容器を使わず洗い物なしで、手作り感が味わえる。
それでいて、子供達は、自分のオリジナルケーキを作った!体験が味わえる。実感。
まあなんと便利なの。
お値段は、生のホールケーキを買うよりうんと安い。
長女は、下2人が遊んでいる間、ずっとノートパソコンで仕事をしていた。
上2人(孫)の習い事(パパ付き添い)が終了し、メンバーが揃うまで、ばあちゃんち(うち)で待機。
1番下孫が、オシメがやっと取れたと喜んでいたのも束の間、トイレが近く、なんどもトイレ行きを訴える。
その度に、長女はモニター画面から目だけを動かして「ばあちゃんに連れて行ってもらい」と指示香港永居申請
何回もトイレ介助は、じつにめんどくさい。
しかし、これがお年寄り相手だと想定すれば、なんと可愛らしいことか。
ちびっこは、3歳で体重も軽いし。
お年寄りは、意外に重い。

まあ、いずれ自分も介助のお世話になる身。
誰だって、お世話になんかなりたくないだろう。
順送りか。
いつもすまないねえ、、、と、申し訳なく思うのは辛いが、脳の老化で頭が解放されていたら、それほどでもない。
母なんかは、自分がオシメをし始めた時からオシメの存在すら知らない。
脳内は極楽だ。

ちなみに、同じ年頃の子供(孫)のいる家庭のクリスマスケーキも、ほぼ似たような手作り具合だったと知り合いから聞いた。
りく◯ーおじさんのチーズケーキを台にして、まわりに生クリームを塗ったらしい。
どことも考えることは、似たり寄ったり。
省エネで楽しめるアイテムが手軽に手に入る。
本格的手作りケーキでなくても良い。
(昔、友人宅で本格的ホールケーキを作っていたが)

と、話はオシメになったり、ケーキになったり。
相変わらず行ったり来たりの、成り行き任せ。

いつものように次女のお婿さんが、自家製ミートローフを家で焼いて持ってきてくれた香港投資移民條件
クリスマス・プレゼントも5人の孫たちや親たちの間で飛び交い(ついでに、ばあちゃんも、もらった)、とても賑やかなクリスマスになった。
全く全員クリスチャンではないけれど。
  


Posted by 零七 at 15:11Comments(0)

2023年12月05日

どんな商品が来てもいけ

疲れる毎日。
暑い季節はそれだけで負荷がかかる。
日本に住んでいたら宿命か。

さて。
ポスティングされていたミニチラシを孫が持ってきた活動場地租用
毎日を楽しく過ごす極意、良いことが書かれていた。
写真に撮って、データ・キープしたわたしは、なかなかのものだと感激した。
まるで宗教への誘(いざな)いだ、と感心していたら、なんてことはなく、宗教だった。
あのチラシの文章の次には、どんな宗教が来ても、どんな会社案内が来ても、どんな倶楽部案内が来ても、どんな商品が来てもいけそうだった。
プレゼンの資料として保存しておくと使い道があるかも知れない。

その宗教をググッてみると、新興宗教だった。
ちなみに、わたしは、宗教は毛嫌いしている。
大学をはじめ、政党まで持っている宗教もある企業禮品
絶大な力。

次女にミニチラシを見せたら、街を歩いていると、宗教の勧誘らしきものを何度か受けたことがあるという。
いつもは、「急いでいるので」と立ち止まらず無視するかっこうだそうだ。
だが、ある日、20歳ぐらいの純粋な感じの女の子が、ベテラン会員さんといっしょに勧誘活動をしていて、ちょっと話を聞いてみようかという気になったらしい。
聞けば、田舎から出てきて知り合いもなく寂しい状況だったところをその宗教に誘われて入ったら、寂しさも飛び、満たされた毎日に変わったとか。
その話を聞いた次女は、「その20歳ぐらいの女の子の母親に知らせてあげようかと思った」と言う。
まだ社会経験も浅いのに、都会で変な宗教に片足突っ込んでますよーー、と何も知らない親に注意を促す、、、。
本人に警笛を鳴らす以前に、親に知らせたいという次女だが、次女はすでに社会経験を少々積んで保護者の心境か。

一方で、親が信じる宗教に子供を巻き込むのはいかがなるものか。
洗脳に他ならないが、家庭内のことには外からは介入出来ない。
子供が成長して自分で考える力をつける前に、強制的にパワハラで子供を洗脳するなんてことは、自立を阻む。
良い教えだけを抜粋して正しい道徳心を植え付けるのなら悪くないが、行き過ぎ、エスカレートする危険性がある。
学校の倫理の授業のようなら良いが。

宗教には共通する教えはある。
だが、相容れないものもある。
偶像崇拝か、禁止か。正反対。
歴史的に重みのある日本古来の仏教も、日本でアレンジされたとしても、インドから始まり中国などの大陸経由で大筋やって来たのではないかと、うすぼんやりおおまかに想像している。

ある新興宗教の信者さんが不治の病にかかった。
枕元にはズラリとその宗教関係者が病人を囲んでお祈りする。
結局、その人はしばらくして亡くなった。
その様子を見ていた友人の人はつぶやいた。
「なんの力にも役にも立ってない」と。

しかし、本人にしてみれば、こころが救われたかも知れない。
周りから見ると、ばかばかしいとしても。
どんな悲惨な悲劇のどん底にいても、宗教が自分を救ってくれるなら、立派なものだ。

「あなたは、神の元に召されます」
そんな教えがある宗教があるとしたら、喜んで神の元に召されるのかも知れないが、悪用されると大問題、社会問題だ。
国ごと、一丸となって突き進んでいた時代もあった。
深刻である。

ある記事で紹介されていた話。
死ぬと、自分は死んだことがわからない。
客観的には、死は存在するが、主観的には死は無いそうだ。
だから、心配しても始まらないとのこと。
あっけらかんとして明るい。
ふむふむなるほどと納得できた。
考え方も色々。
自分が好きな考え方を選ぶとよい。
選択肢が多すぎて、眠くなりそうだ。
残された自由時間を使ってしまうには、あまりにももったいない。
不眠で睡眠不足の人にはちょうど良い睡眠導入剤になる。
わたしには、たんに集中力や緊張感が持たなくなるだけの話である。
眠るのが大好きで、大の楽しみ、というのも、立派な教え、生き甲斐の一つだとか。
(冒頭のミニチラシに紹介されていた)
眠り姫であるわたしは、「眠り教」の幹部ぐらいにはなれるだろうか?
否、なれない。
ただ自分が快眠を貪るだけで、人のことなど眼中にないから。

またまた長いだけの、睡眠導入記事になってしまった。  


Posted by 零七 at 10:17Comments(0)